一遍上人

一遍(いっぺん)上人

鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。

延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。ただし同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国(岩手県北上市)に配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。
10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。この時の法名は智真。
弘長3年(1263年)25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行して、十一不二の偈を感得する。文永11年(1274年)には四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、他阿らに会い、彼らを時衆として引き連れるようになる。
さらに、各地を行脚するうち、弘安2年(1279年)信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。
弘安5年(1282年)には鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。
正応2年(1289年)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。

800px-IPPEN (出典:wikipediaより)